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「本当になりたかった」 美容師デビュー目指し  
カナエールで夢を語った「なっさん」 のいま:なっさんの画像

「カナエール2016」横浜会場でスピーチした「なっさん」こと沼﨑南月さん(24歳)。「美容師になりたい」という夢に向かって、「アシスタント」として修業中です。今年で4年目。初めてお客さんの髪を切る「美容師デビュー」を来年1月に控えています。

 

◆東日本大震災 突然〝独り〟に

 

小学校6年生のとき、岩手県釜石市で東日本大震災に遭った。

 

2011年3月11日。午後2時46分の地震発生時、釜石市立鵜住居(うのすまい)小学校にいた。卒業式を1週間後に控え、授業中だった。

 

いったんは山の方角に逃げるも、押し寄せる想定外の大津波に、さらに高台へと逃れる。3階建て校舎が屋上まで大津波にのみ込まれ、隣接する釜石市立釜石東中学校と共に全壊し、浸水被害を受けた。旧校舎の跡地は、後に釜石鵜住居復興スタジアムが建設され、2019年ラグビーワールドカップ(W杯)日本会場の一つとして、フィジー対ウルグアイ戦が行われ、復興のシンボルになった場所だ。

 

夕方、暗くなって波が引いた後、避難所となっていた市役所近くの別の小学校で一夜を明かす。

 

海に近い自宅が被害に遭ったであろうことは、分かっていた。親代わりだった祖父母の安否は不明だったが、「きっと、どこかの避難場所に逃げているだろう」。漠然と、そう信じた。それから2週間。この間に避難所を3回移り変わる。毎日のように、地元新聞に掲載される避難者名簿に目を凝らしたが、名前は見つからない。さらに1週間、盛岡市の親戚宅に身を寄せた。この間も親戚が釜石市内の避難所を探し歩いたが、手がかりはなく、行方不明のまま。自宅も身寄りもない中、「このまま避難所暮らしを続けるのは難しい」との判断で、父の弟である叔父が「親族里親」として引き取ることが決まり、3月末、横浜市へ移り住んだ。

 

◆生いたち 流転の〝末っ子〟

 

生まれる前に、両親が離婚した。5人きょうだいの末っ子で、1人だけ父方に引き取られ、岩手県釜石市の祖父母宅で3世代4人の暮らしが始まる。兄3人と姉1人は、母方へ。母と会ったことはない。兄と姉は、20歳になった時、児童相談所の許可を得て一度会ったきり。叔父から時々、近況を聞く。

 

父は41歳の若さで急逝した。3歳の時だった。生前、車の助手席に乗せてもらい、よくドライブに連れていってくれたことや、亡くなったという認識がないまま、動かなくなった父に話しかけていたことは、かすかな思い出として残っている。葬儀に「母」が参列していたらしいが、それは覚えていない。

 

そもそも、物心ついて以降、「祖父母と3人暮らし」という記憶しかない。

 

祖父母宅は、理容店だった。2人の姿を幼いころから見て、いつのころから「自分も後を継ぐんだ」と思うようになった。両親を失ったせいか、祖父母は、しつけに厳しかった。一方で、祖父は休みの日になると、車やバイクでいろんなところに連れていってくれた。自転車2台で、一緒に出かけたこともあった。幼稚園から小学6年生まで空手を習い、小学3〜5年生の時には、岩手県代表で全国大会へ。祖母は、東京まで応援で付き添ってくれた。

 

そんな穏やかな日々が、東日本大震災で一変する。

 

◆「被災地支援」から広がる交流

 

横浜市で中学に入学後も、夏休みなど機会を見つけては帰郷した。高校生になると、横浜市の地元にある瀬谷(せや)区社会福祉協議会が、故郷の岩手県にある釜石市社会福祉協議会と被災地支援の交流を続けていると知り、支援活動の「瀬谷ボランティアバス」に参加。活動後も、一人とどまり、旧友と再会することもあった。

 

「被災者が、被災地支援をしている」。その姿が、同じボランティアバスに参加していた横浜市の別の高校の生徒会担当教諭の目に留まる。「一緒に活動報告に参加しませんか」。そう誘われ、新たな交流が始まる。高2の時、よこはま国際フォーラムで開かれた報告会にも登壇。その高校の地元商店街で開かれる被災地支援イベントにも参加することになり、企画の打ち合わせをしたり、泊まり込みで手伝ったりした。イベントで岩手出身の来場者と会い、故郷の思い出話で盛り上がった。「小さいことから、人見知りせず、どちらかというと、目立ちたがり屋」。そんな性格が、交流の輪を広げていった。

 

B4Sとのつきあいは、「カナエール2016」横浜会場で登壇したのが、きっかけ。そして、横浜市の委託による居場所事業「よこはまPort For(YPF)」に18歳のころから通い続けている。持ち前の人当たりのよさで、〝新顔〟が入ってくると、すかさず声を掛ける。最近、ある後輩が、こんなことを明かしてくれた。「なっさんに、最初に声を掛けられたとき、『話しかけないで』『殺されるぅ』って思うくらい、怖かった」。当時19歳の「なっさん」は、金髪に、口ひげで、相当の強面に見えたらしい。この話を後輩に聞いて、ショックを受けたと笑う。今でこそ、利用する若者は、みんな「おとなしい」服装になっているが、自分自身、通い始めたころ、確かに「結構、ヤバいところに来てしまったかな」と思うような外見の先輩が数多くいたという。もっとも、見た目とは裏腹に、みんな優しく、今も「居場所」として通い続ける大切な場所であり続けている。

 

◆「どん底」から這い上がる

 

「カナエール2016」横浜会場で、「美容師になる」と宣言。美容専門学校に入学し、新たなスタートを切った。講義で分からないことがあれば、先生に個別に質問に行き、実習なども遅くまで学校に残り、練習を重ねた。にもかかわらず、そこまで一生懸命やっていないクラスメートに成績を越される。これが、精神的にこたえた。

 

高校に通っていたころ、成績はいつもトップクラス。手先も器用だと自負していた。「理容師より、おしゃれかな」と思い、美容師の道を選んだ。

 

ところが、思わぬ「力量差」を見せつけられ、徐々にやる気を失っていく。2年生になってから就職1年目までの2年間は、気持ちが〝どん底〟の状態で、現在の就職先の内定が決まった際も、「本当に、このまま美容師になっていいのか」と断念することも考えたという。

 

それでも就職して1年目。とにかく、アシスタントとしてやるべき仕事に、朝から晩まで追われ、あれこれと悩む暇すらなくなる。そのうち、徐々に仕事に楽しさを感じるようになる。いつのまにか、「どん底の気分」は、どこかになくなり、既に4年目を迎えた。

 

今は、7人の先輩美容師がいる中、たった1人のアシスタントとして、日常業務を支える。お客さんの男女比は半々。「シャンプー」は、アシスタントの仕事なので、すべてのお客さんと接することができるのは、自分だけだ。「最近、髪、切った?」「ちゃんと食べてる? 痩せたんじゃない?」。お客さんから、そんな声がかかる。「本当に、気に掛けていただいて、感謝の気持ちでいっぱいです」。将来は、「ずっと担当してほしい」と思ってもらえる美容師になりたいと願う。

 

高校時代、他校の仲間と一緒に被災地支援活動に携わった体験が、「カナエールって、面白そうだな」と思うきっかけになった。社会人ボランティアの「ジャンボ」「るんるん」「おちえ」の3人が、スピーチづくりをサポートしてくれた。「参加して、すごく良かったなと思うのは、誰かとつながって、一緒に成し遂げることの大切さを知ったこと。自立するには、結局、誰かの助けが必要で、誰かと協力していかなきゃいけない、っていうことを経験するいい機会になりました」。そのことが、今の仕事にも生きていると感じる。

 

今年5月。オーナーから、声が掛かった。「(初めて、お客さんの髪切るの)来年の1月ね」。「美容師デビュー」だ。今は、不安しかない。自信もない。「本当に、自分にできるんだろうか」。一方で、気負いもないという。オーナーは言う。「半年で、完璧になれるような人間なんていないから。でも、最低限、たたき込んで、成長していくのは、おまえ自身だから」と。自分でも「アシスタントという立場は、やっぱり楽なんです。責任がないから。そこの殻を自分で破れるかどうか」と考える。そんな心境の中、シャンプーをしながら、お客さん一人一人の頭や髪の特徴をつぶさに観察し、手で感じ取り、自分なら、どう切るか、イメージトレーニングを重ねる。

 

◆祖父母への報告

東日本大震災から10年。被災地の人たちは、外から見る以上に、みんな元気になったと感じる。その一方で、被災そのものよりも、過疎化の影響が一段と深刻になってきていることに危機感を募らす。「若い人たちが、地元を支えていかないと」。その輪に加わりたいと思う。

 

事実上〝天涯孤独〟となった東日本大震災について、「『転機』としか言いようがない」と振り返る。

 

里親になってくれた叔父家族とも、ようやく自然な気持ちで向き合えるようになった。中学・高校生という思春期・反抗期の最中、「お世話になっている」「迷惑をかけちゃいけない」との思いが強く、自分の心のどこかで常にそれが引っかかっていて、子どもなりに先回りし、いろいろなことを考えてしまっていた。自立し、その重しが少し取れた分、以前よりいろんなことが話せるようになったと感じる。

 

「時間的な余裕のないまま、成長してきた」という実感もある。小さいころから、学校の先生や友達に、「なんか、大人になりすぎている」と、よく言われてきた。それについて、「たぶん…」と少し言葉を選んだ後、こう語った。「実の親、本当の親とのかかわりが必要な時期に、そういうのがないと、早く大人になろうとしちゃうから」。

 

「理容師になって、後を継ぎたい」。小学校5年生の時、祖父母に、将来の夢を語った。

 

喜んでもらえるかな、と思っていたら、意外にも、祖父母は、そろって反対した。「自分のやりたいことを、やりなさい」と諭すように。

 

「これが本当に、自分のやりたいことだよ」。一生懸命、説明すると、ようやく「ありがとう」と言ってくれた。だが、孫が気遣って、そう言っている。あのとき、祖父母は、そんなふうに受け止めていたのではないか、と思っている。

 

東日本大震災時の祖父母の詳しい足取りは、分からない。近所の人の話などによると、地震発生時、祖父母は理容店にいたらしい。「南月を迎えにいかないと」。避難訓練の手順通り、小学校へ向かおうとする姿が目撃されたという証言もある。しかし、その小学校自体、校舎の屋上まで大津波にのみ込まれた。

 

行方知れずのまま、3月末、横浜市の里親宅へ。その直後、悲しい知らせが相次ぐ。

 

祖母は4月半ば、祖父は5月の大型連休中、いずれも自宅から700〜800メートル陸側で見つかった。2人とも70代半ばだった。身元確認のため、故郷に向かい、対面した。

 

美容師として独り立ちしたら、釜石に帰郷したいと考えている。

 

そして、釜石で眠る祖父母の墓前で、こう報告する。
「おじいちゃん、おばあちゃん、本当になりたかった美容師になったよ」。

 

カナエールで夢を語った「なっさん」 のいまの写真

 

 


カナエールで夢を語った「登壇者のいま」は、3回シリーズです。

>> 第2回「ちーちゃん」はこちら

>> 第3回「チャンプ」はこちら

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