ニュース・活動報告

「大きなことを成し遂げる」 その日のために
チャンプカナエール登壇写真

「カナエール2015」東京会場でスピーチした「チャンプ」こと君塚龍二さん(26歳)。「レスリング五輪代表」を夢見たこともあるが、今は目標を切り替え、世界展開するフィットネスクラブで「トレーナー」として心身を磨きながら、次の「未来」を構想している。

 

◆「チャンプ」誕生

 

「チャンプ」。そのニックネームの由来は、高校時代にさかのぼる。

 

「レスリングをやりたい」。児童養護施設の近くに強豪校があったので、進学先に選んだ。初体験の競技だったが、腕力に自信はあった。めきめきと頭角を現す。そして、高1の千葉県大会の総当たり戦。その後、因縁のライバルとなる「彼」と初めて対戦した。小中学生のころから鍛え、全国大会でも上位に名を連ねる強敵。完敗だった。試合後、こともあろうか、「彼」は、テレビドラマやスポーツ漫画の〝悪キャラ〟よろしく、悪態をついてきた。「おまえじゃ、一生勝てないさ」。闘争心に火が付いた。

 

高2の県大会決勝。雪辱を期す機会が来た。だが、最終ラウンド終盤になっても、数ポイント差でリードされていた。残り20秒。一瞬の隙を突き、大技をかける。逆転。その瞬間、終了のホイッスルが鳴り響く。後にも先にも味わったことのない喜びが、全身で沸騰した。「彼」は床に伏せって泣き崩れている。だが、悪態をつくようなことはしなかった。これを機に、お互いの実力を認め合い、「よきライバル」となっていく。

 

この優勝のすぐ後、「カナエール2015」東京大会に参加することになり、ニックネームも、「チャンプ」に決まった。「チャンプ」誕生の瞬間である。

 

高3の県大会は、この強豪2人を県代表で送り出したいという地元関係者の戦略などもあり、別々の階級に。互いに対戦することなく、2人そろって県代表の座を勝ち取った。

 

高2の時はインターハイ、高3の時は国体に、それぞれ県代表として出場。県の五輪強化選手にも選ばれた。強豪大学に進学し、将来は五輪選手を目指したい。夢が膨らむ。

 

高2まで「大学進学」を考えたことがなかった。レスリングでの活躍で、気持ちが切り替わる。しかし、現実は厳しかった。強豪校は、どこも私立大だ。奨学金を申請しても、返済の必要のない「給付型」にはなかなか採用されない。返済義務のある「貸付型」はいくつか得られたが、全然足りない。学校の先生や児童養護施設の職員の説明では、私立大だと卒業時点での〝借金〟が1千万円に達する場合もあるという。

 

最近は、給付型の奨学金制度や自立支援事業などが少しずつ充実してきたことで、児童養護施設の子どもたちの進学率が徐々に上がってきている。早くから子どもたちの意識を高め、準備を進めようと、中学生くらいから、施設の自立支援担当職員らが話し合うことも。早めに進学先を選んだり、計画的にアルバイトをして将来の学費や生活資金を貯めたり、高3の春の時点で、具体的に動けるよう、入念に段取りをして迎えるケースも珍しくない。

 

「中学生で、自分の将来を決めるなんて、すごいですね。ふつうは、なかなか難しい」。わが身を振り返り、そう思う。「当時、児童養護施設出身で進学する人は、まだまだ少なく、あのころ聞いた話では、7〜8割が就職でした。理由はお金。そして、仮に進学しても、卒業できるのは1〜2割程度。これもまた、理由はお金。みんな、バイトに明け暮れる学生生活を送っていたようです」。

 

人生で初めての屈辱と絶望感を味わった。それまで、あまり思うことのなかった「生まれた環境」。「なんで、〝ふつうの家庭〟に生まれなかったんだろう。〝ふつう〟に生まれていたら、通えていたかもしれない大学に、みんな進学しているのに」。ライバルの「彼」もまた、レスリング強豪の私立大に進み、活躍していた。

 

結果的に、強豪大学への進学はあきらめざるを得ず、専門学校へ進み、「スポーツトレーナー」になろうと思った。最初は、トレーナーとして「五輪選手を支える」夢も描いていた。

 

そんな折、カナエールで、スピーチづくりのため、社会人エンパワのボランティアの人たちが、さまざまな関係者にインタビューする機会をつくってくれた。その中に、「五輪選手のトレーナー」もいた。話を聞いて思ったのは、「ほとんど、ボランティアに近い状態。現実が見えた気がした」ということ。注目を集めるメジャーな競技や種目ならともかく、多くは選手自身も、練習拠点やスタッフ、遠征費などの資金を確保するため、サポートしてくれるスポンサーをどう見つけるか、といった課題をかかえている。「トレーナー」となれば、なおのこと。それでも専門学校に進学して夢をかなえたいため、ふつうの「スポーツトレーナー」になろうと気持ちを切り替え、米国発祥で世界展開するフィットネスクラブ「ゴールドジム」から内定を得た。自分自身、本格的にトレーニングを始めていたころで、「トレーニングなら、日本一、世界一のジムだろうと思いました」。

 

◆父との〝車上生活〟

 

小学1年生の時、両親が離婚した。2人とも「けんかばかりしていた」記憶しかない。父に引き取られた。実は、父方に義理の兄、母方に義理の弟がいるものの、会ったことも、一緒に暮らしたこともない。離婚後、母とは音信不通となり、20歳の時、一度再会したきりだ。

 

離婚後、父との〝車上生活〟始まる。房総半島を中心に、千葉県内を移動していたらしい。父は失業し、知人を訪ねてはお金を借り、生計を立てていた。「ザ・昭和の男」「おれの言うことを聞け」といった感じで、とにかく厳しく、怖かった。「楽しかった思い出はないけど、当時は、それが普通だと思っていた」という。

 

小4の時、その父が突然倒れる。ショッピングセンターの休憩室で座っていた父が、急に目の前で頭から倒れ、鈍い音が響き渡った。最初は冗談かと思い、体を揺すって声を掛けていたが、近くにいた人が救急車を呼び、初めて頭が真っ白になった。何が起きているのか、分からない。救急隊員に質問されても何も答えられない。気が動転して、何もできなかった。

 

車上暮らしの心労が重なったのか、脳梗塞だった。「後で聞いた話では、救急車を呼ぶのが遅れたため、心臓が止まっていた時間が長く、脳へ血流が行かず、記憶もなくしてしまったのだ、と。それも重なり、かなり自分を責めました」。

 

父は入院し、自分は児童相談所の一時保護所に半年間預けられた後、児童養護施設に入所する。父は、倒れる前の記憶を失っていた。お見舞いに行っても、息子のことが分からない。「最強の男」だった父が、「最弱の男」として横たわっていた。ショックだった。入院生活は1年ほど続くが、その姿を見るのがつらく、嫌で、お見舞いに行く足取りはいつも重かった。そして、子どもながらに、父の人生が、そう長くないことも悟りつつあった。

 

一時保護所では、悲しくて、毎日泣いた。実は、父が倒れる寸前、アパートを借り、小学校も決め、父も仕事先を見つけ、「さあ、再スタートだ」という矢先の出来事だった。「自分がもっと早く児童養護施設に行けば、父は自由になれて負担をかけずに済んだんじゃないか」「結構、悪ガキで、迷惑をかけたりして、それで負担をかけてしまったのではないか」。そんな自責の念にさいなまれた。

 

「自分のせいで、父さんが倒れた」「自分がいたから、父さんに無理をさせてしまった」。そう自分を責め、何度も死のうと思った。でも、死ねなかった。「子ども心に、簡単に死ねるだろうと思うんだけど、いざ死のうとすると、死ねない。恐怖や不安に襲われ、どうしてもダメでした。人は簡単には死ねないんだと、思い知りました」。そのうち、考えても、何も変わらない、ということに気付く。「もともと、小さいころから『無駄なこと』が嫌いな性分だったので、無駄だって思うようになったら、だんだん考えなくなりました」。

 

環境の変化も影響したのかもしれない。一時保護所から児童養護施設に移った時期とも重なる。一時保護所は、1〜2週間で去る子もおり、次々と顔ぶれが変わる。「物理的に人がいても、精神的には1人でしたから」。どうしても一人であれこれ考えがちとなる。ところが、児童養護施設に入ると、家族のように一緒に暮らす仲間がいる。3年ぶりに通うようになった学校でも友達ができ、楽しかった。「あす、何して遊ぼうか」。前向きに、いろいろと考えるようになる。「そのことも大きかったですね」。

 

◆そして〝独り〟に 

 

小5の5月。運動会の練習中に、その知らせは届いた。早退し、病院に向かう途中、「とうとう、いなくなっちゃうんだな」と思った。「絶対に逆らえない人」だったけど、「唯一、血のつながっている人」がいなくなる喪失感。物心ついた時、既に父は精いっぱい生きるのに大変そうで、どんな人生を送ってきたのか、本人の口から聞く機会もなかった。ただ、格闘技が好きで、若いころ、ボクシングをやっていた、と話してくれた記憶はある。享年55歳。「悲しい」という言葉だけでは、言い表せなかった。身内だけの葬儀に、母の姿はなかった。

 

このころを振り返り、こう分析する。「あのころ、ネガティブなことに徹底的に向き合い、泣いて、(悲しみを)すべて吐き尽くしたから、自分なりに、過去への気持ちに区切りを付けることができた。そして、ポジティブな思考へと、変わることができたのだと思う」。そして、自分なりに悟った。「人は、いずれ死ぬ。それが早いか、遅いかだけだ」と。「たった一人の家族を失い、これから〝独り〟で生きていかなければ。頑張らねば」。そんな感情も沸いてきた。

 

児童養護施設は「生きていく場」だった。小さいころはいじめられたり、反抗期になると職員とけんかしたり。一方、料理が好きで、仲間のために、いろいろなメニューを自ら作ることもあった。洋食系のファミリーレストランなどでアルバイトし、厨房を担当した経験もあり、「将来、料理人になろうかな」と思ったこともある。

 

中学生までは「野球少年」だった。小5・小6ではクリーンアップを打ち、守備の要のキャッチャーに。中学生では4番を任され、ピッチャーやファーストを務めた。ただ、チームプレーも面白かったが、格闘技など個人競技の方が自分には向いているかな、と考えるように。高校に入ったら、柔道か、レスリング、団体競技なら、格闘技に近いラグビーをやりたいと思った。格闘技系の競技を選んだのは、父親譲りか。通学に無駄な時間を掛けたくなかったので、レスリングの強豪校だった近所の高校に通うことにした。

 

◆〝未来〟を見すえ

 

フィットネスクラブに入社して6年目になる。「トレーナー」としてお客さんと接するようになったのは、ここ1、2年のことだ。それまでは、ジムスタッフとして受け付けや機器の手入れなど下積みを重ねた。その間も、入社した2017年から毎年、ボディービルディングの大会に出場している。「お客さんと接する際も、自分が競技者として、自らの体を鍛え、コントロールしているほうが、説得力や信頼感が生まれる。ブランディングの一つです」。そう説明する。大会に向けて、体重を絞り、鍛え上げる。オフシーズンは、もとの体重を戻す。自らの体重を調整しながら、そのノウハウを身につける。そんな地道な努力を続けてきた。

 

お客さんの「やる気」を保つのにも工夫が必要だ。「目標を設定し、小さくても結果を見せること。それが次につながる」。そうして、お客さんが喜ぶ姿が、自分のモチベーションとして返ってくる。生活習慣病などをきっかけに通ってくる人もいる。「食事のコントロールに対するアドバイスも必要になってくるので、社内研修で、そういうことも勉強しています」。自らの減量の実践で得た調理法や工夫を、お客さんに紹介することもある。料理もまた、「相手がいる」という点で、トレーナーに似ていると感じる。

 

カナエールで、ボランティアとしてスピーチづくりを支えてくれた社会人エンパワの「おかたく」「いりー」「ばーやん」。「誰かのために」という3人の姿が、今の自分に重なる。

 

勤め先のフィットネスクラブ「ゴールドジム」は、世界30カ国700カ所以上に会員300万人を擁する「世界最大級」のクラブだ。第一志望で、内定を射止めた。「超一流」のジムで「結果」を出す。いずれ自分の力で何か「大きなことを成し遂げる」その日のために、修業している。その「結果」一つとして、国内の系列ジムでも、常に上位の成績を上げている。単なる「サラリーマン(社員)トレーナー」になるつもりはない。

 

もう一つ、有料で指名制の「パーソナルトレーナー」も兼務している。「多くのお客さまにご指名いただき、一人一人に合ったトレーニングを提供しています。自分の体が変わり、見える世界が変わり、人生が変わる。一人でも多くのお客さまに、フィットネスライフが変わったと実感いただきたい。そのためにも、ゴールドジムで自分を磨き、カリスマ性を高めていきたい」。そして、それらを、いつか「大きなことを成し遂げる」ことにつなげたい。そう考えている。

 

何か「大きなことを成し遂げる」。これは、小さいころから、ずっと描いていた目標だ。

 

「まだ、振り返るには早い年齢ですが…」と断りつつ、「今のところ、ここまで、よく頑張ってるんじゃないかな、と思います。なんで、こんな大変な苦労をすることになっただろうとか、失敗もしてきたけど。でも、人生なんて、死ぬ瞬間まで分からないし。だから、20代半ばの今の自分には、まだまだ頑張ってもらわないと。。将来の自分に、『本当に最後まで、おまえはよく頑張った』と言ってもらえるよう、『一生懸命、がんばれ』って感じですかね」。

 

たった一人の家族を失った時、泣いて、泣いて、泣き明かし、悩んで、悩んで、悩みつくし、ネガティブな自分の気持ちと徹底的に向き合い、訣別した。

 

そして、高2の時、レスリングの県大会決勝で、因縁のライバルの「彼」に、ラスト20秒で逆転勝ちした経験は「どんなにつらくても、最後まであきらめなければ、必ず勝つことを教えてくれた。これは、親父譲りかもしれない。親父の背中は、絶対に死ぬまであきらめることなく、ぼくを守ってきた」。

 

だから、今は、きっぱりと、こう思う。「その分、未来は、楽しみにしていますよ」。

 

チャンプ画像

 


カナエールで夢を語った「登壇者のいま」は、3回シリーズです。

>> 第1回「なっさん」はこちら

>> 第2回「ちーちゃん」はこちら

 

Bridge for Smile

認定NPO法人ブリッジフォースマイルのホームページへようこそ!

私たちは、児童養護施設や里親家庭などで暮らす、親を頼れない子どもたちの巣立ち支援をしているNPOです。
ご関心に合わせ、以下から知りたい項目をお選びください。