ニュース・活動報告

元イルミネーターきてぃ子 インタビュー

ブリッジフォースマイル主催の「コエール2021」でイルミネーターとして登壇し、自らの生いたちや、社会に向けて感じていることをスピーチした「きてぃ子」(31歳)。この経験をきっかけに、「当事者発信」の取り組みを本格化させるようになりました。そのまなざしの先に、どんな思いがあるのでしょうか-。

 

■姉御肌の「なっちゃん」 今は、どこに?

 

「なっちゃん」。児童養護施設の2年先輩で、とても仲が良く、面倒見のいい「お姉さん」という感じでした。ぶっきらぼうな部分もあるけど、人のことを大事にして、社会に出た時のルールの厳しさみたいなものを教えてくれました。いわゆる「姉御肌」。「こういうお姉ちゃんがほしかったな」って、ずっと思っていました。

 

施設を退所した後、私が「自立」の道を歩み始めたものの、一番困窮していた時、唯一、手を差し伸べてくれたのも「なっちゃん」でした。ところが、数年前、いきなり連絡が途絶え、どこにいるのか、わからなくなってしまいました。

 

■「暴力」が日常だった15年間

 

物心ついたときには、母と兄、そして母の恋人と4人で暮らしていました。祖母も、母のことを虐待し、私も母から虐待され、虐待が「連鎖」している家庭で私は生まれたんですね。

 

父は、私が2歳になる少し前に家を出て行って、離婚調停にも来なかったそうです。私の中で「父の記憶」というのは、ほとんどありません。実は10歳のころ、1~2回、会っています。父の実家に行って、父方の祖父母もいて。でも、何を話したか覚えていません。「その人」に自分の名前を呼ばれていることじたい、変な感じがして。「会ったことがある」という記憶だけですね。

 

母は、異性依存が強い人。だから、いろんな男性と生活していました。私が幼稚園の年中・年長のころから小学3年生くらいまで一緒に住んでいた男性は、母に対して暴力のすごい人でした。最初は、暴言だったんですが、次第に暴力が激しくなって、小3の時、シェルターに避難しました。小5の夏休みの終わりくらいまで、そこで母と兄と3人で暮らしました。母も「働かなきゃいけない」という意識になり、介護の資格を取りました。当時の「ホームペルパー2級」かな。

 

でも、人に頼ってしか生きてこなかったこともあり、自立して働くことのストレスを、子どもにぶつけるようになりました。母にとって気に入らないこととか、何か「許容範囲」を超えることがあると、日常的に暴力を受けました。強烈に覚えているのは、髪の毛をキッチンばさみでバッサバサに切られたときのこと。大切に髪を伸ばしていたので、ショックでした。

 

13歳くらいのころ、殴られて鼻血が全然止まらなくて、玄関の上がりかまちで、血まみれの状態で「ブラックアウト」しちゃったことがありました。2時間くらいして意識が戻ったら、みんな寝ていて部屋は真っ暗、っていうこともあって。

 

母は、兄に対しては言葉の暴力ですね。力では勝てないので。怒鳴り散らしているという感じ。

 

その兄から私への暴力もありました。兄は、主に言葉の暴力です。私の存在意義を否定するように、「居てもいなくても一緒だし」みたいなこと言う。それと、お小遣いを取り上げちゃったり、私の学校のプリントを破いて提出できなくしちゃったり。お金を盗むのと、勉強の邪魔は、すごく多かった。学年は一つ上ですが、勉強の面で私の方ができることに対して、プライドが傷つけられ、反発があったのかもしれません。

 

祖母からの虐待もありました。兄より私の成績がいいと、兄を超えていること自体、「生意気だ」みたいなのがあって。兄は物をもらっても、私はもらえないとか、名目上「2人で使う」と言いながら、どう考えても兄しか使わないものを買うとか、祖母は、そういうことを平気でする人でした。一緒には住んでいませんでしたが、気が向いたら、うちに来て、好き勝手言っていくみたいな。

 

中3で児童養護施設に入るまでの私の15年間は、そんな感じでした。だから、「暴力のない世界」というのは、施設に入るまで知りませんでした。

 

■施設に入り 初めて「平穏な日々」

 

その日は、母からものすごく叩かれて、家の外に出されたんです。いつものように夜だったら、友達のところに行けなかったのですが、その日は昼だったので、何とかしてくれるかもしれないと思い、友達の家に行きました。そこから、中学校経由で児童相談所に連絡が行って、一時保護されました。それが、中3の夏休みになる直前、7月かな。

 

「一時保護」の期間が終わって、児童養護施設に一度入ったんですが、少しややこしいのは、母も「反省しているから」と言ってくれて、家族が再構築できると思って施設から自宅に帰ることを決めたんです。高校受験が終わって無事に合格したんですけど、その後、母が児童相談所のアフターケアを拒否したり、施設と連絡を取らないよう遮断したりして。さらに、おなかに妹もできたんです。それで、高1の10月、また追い出されて、元の児童養護施設に戻りました。

 

児童養護施設の暮らしは、すごく快適で、暴力もないし、ディズニーランドとか、スキーとかにも連れて行ってもらったし、ご飯も出てくるし、「いい世界だな」って思えて。

 

もちろん日々の暮らしで、ちょっとイラッとしたり、子供同士で仲たがいしたりすることもあったけど、意味もなく怒られたりとか、何も悪いことをしていないのにおびえて過ごしたり、がないっていう世界を初めて知り、すごく楽しかったです。母と面会することも、一時帰宅することもなく、再び母と会うようになったのは、大人になってからですね。

 

「なっちゃん」と知り合ったのも、2回目に施設に入った時でした。女子寮が二つあって、途中から別々になって。「なっちゃん」は高3だったんですが、卒業後は施設に隣接する自立援助ホームにしばらくいたので、道端で会ったりすると、「ああ、なっちゃんだあ」って。とにかく、仲が良かったですね。

 

高校時代、バトミントン部に所属していましたが、ほとんど顔を出さない「幽霊部員」で、ずっとコンビニエンスストアでアルバイトをしていました。お金を貯めないと、スマホを持てなかったので。私たちの時は、女子は夜10時までに帰らなきゃいけないけど、男子は夜10時まで働いていてもいい、という謎のルールがありました。

 

本当は「大学に行って勉強したい」っていう気持ちがあったけど、「私が今、本来やらなきゃいけないのは働くことなんだ」みたいな、「働くために何かをするしかないんだ」と思っていました。12~13年前の当時だと、まだ奨学金の制度とかも、実質「借金」することになる「貸付型」しかなく、返済義務のない「給付型」はありませんでした。「借金」をしてまで進学して、その後、ちゃんと返していけるのか、わからなくて。「いずれ、自分で学びたい何かができた時のために、今はお金を貯め続けるしかないな」って。でも、これは、自分の中で「あきらめ」の気持ちを説明するための言い訳でもあるんだけど。

 

もし、大学に進学できていたら、法律を学んで弁護士さんになりたかった。弁護士さんに関心を持ったのは、子どもの権利擁護をテーマに、弁護士さんから話を聞く機会があって、自分の受けていた虐待が、法律上、どういうことなのか、自分は何も知らないんだなって。そのことに気付いたのも、施設に入ってからでした。できれば法律を使って、誰かを助けたり、いろんな問題を解決したりできればな、という思いがありました。法律を学んだり、法律的な教科を学んだりするのが好きで、成績も良かったので、行きたかったなって。

 

2年制の専門学校に行けるかもしれない、と思っていた時期もありました。理学療法士さんか、作業療法士さんになるためのコース。実際に専門学校に行くことができないか、シミュレーションしてみたこともありました。高2の冬休み、学校説明会に参加し、校内を見学して、一時は「行けるかもしれない」と思ったんですが、高3の時、今のアルバイトの状況じゃ、進学資金的にも難しいなと気付いて。その時は落ち込みましたよね。行けないってわかったときは、すごくつらかったです。

 

■「自立」するも 道のりは険しく

 

結局、職業訓練校(職業能力開発センター)の塗装コースに1年間通いました。高校時代の担任の先生が「美術」で、私も「美術」が好きだったので、勧められて選びました。授業料もゼロですし、「それはいい」となって。塗装関係は全て学びました。建築塗装、板金塗装、木工塗装、それに「剥離」といって、神社の「朱色」をはがす特殊な技術もね。就職したのは、焼き付け塗装の工場でした。10月の時点で内定をもらって。

 

ただ、本当は通っている間、毎月10万円の訓練給付金がもらえたはずなんですが、どこからも、そういう説明がなく、知らなくて、申請しなかったので、もらえなかったんです。入学時の書類にあったのを見落としたのか、今となってはわかりません。当時、入っていた自立援助ホームのスタッフも、基本的に「自立のためにやるんだから、(入学手続きなどは)自分で書類を読んで、自分で手続きするんだよ」みたいな感じでしたから。ホームは、就職先の内定が出た10月までの半年間だけ、いました。早く自立生活したかったんで。

 

でも、現実は甘くなかった。高校時代からためてきた貯金から、ホームの寮費を払うと、手元に残ったのは、1カ月に使えるお金が、わずか5000円。「自由になりたい」との思いで一人暮らしを始めましたが、ぎりぎりの生活でした。訓練校に通うことで、もらえるはずだった「毎月10万円」の訓練給付金があれば、水以外のライフラインが止まることもありませんでした。訓練給付金の存在を知ったのは、何年も経ってからのことです。

 

ともあれ、困ってホームに相談に行くと、「ごめんね! 今いる子の相談があるから、またね」と。「守るべき対象からあなたは外れたのよ」と言われた気がしました。

 

そんな時、助けてくれたのが「なっちゃん」でした。「なっちゃん」も施設を出た後、半年ぐらい事務職で働いてお金をため、自立支援ホームを出て自立生活を始めました。私たちのころは、いつまでも施設やホームにおらず、「早く出るのがいいこと」という感じでしたから。

 

12月くらいには、すっからかんになって困り切っていた私を、「なっちゃん」は自室に置いてくれました。そして、自分も夜働いて大変なのに、食べ物もお金も分けてくれました。「なっちゃん」は、「私が大変な時は誰も助けてくれなかった。でも、あなたは、なんとかしたい」と。

 

翌春、内定先の工場に勤め始めました。その工場は、外注をもらって作業する感じでした。でも、ここは2年ぐらいで辞めました。塗装の社会って、なんだかんだ言って、やっぱり「男社会」だったし、そういう昔ながらの雰囲気になじめなくて。21歳の子になんで、ぎゃあぎゃあ言うんだろうって感じで。

 

■希望の「介護畑」で 新たな夢へ

 

工場を辞めたころ、ちょうど介護保険法が2011年に改正され、「ホームペルパー1級」「ホームヘルパー2級」が「介護福祉士実務者研修」「介護職員初任者研修」に変わったんです。それで、実務者研修の5カ月コースに申し込んで、雇用保険をもらいながら職業訓練校に通いました。卒業は10月でしたが、8月から介護施設で1日「4時間未満」のアルバイトも始めて、そのまま就職しました。「介護福祉士」の国家資格は、3年の実務経験を積んだ後、就職後に働きながら取得しました。夜勤専従で働いて、仮眠して、昼間勉強して。

 

勤務先は、障害者のグループホームだったり、老人保健施設だったり。今は「サービス管理責任者」の資格も持っていて、そうやって資格や実務経験を重ねていくと、年収も上がっていきます。今は、めちゃくちゃ楽しいですよね、なんか。もともと理学療法士や作業療法士を目指そうと思ったこともあり、福祉分野や介護畑が希望だったっていうのもあるけど。

 

現在は、社会参加や復職・再就職を支援するリワーク施設でうつ病・精神神経発達障害の人の再就職・社会参加に向けた自立訓練・生活訓練を支援する仕事です。休職していて復職を目指している人とか、社会に一度も出たことのないひきこもりの人とかもいて、その人たちが社会参加するのを支援するため、株式会社が運営する施設の管理者を今年2月から務めています。

 

なので、次は「精神保健福祉士」の国家資格を取りたいと思っています。新しい分野についても、専門的な知識や経験も必要になるので、もう1回、ちゃんと学びたいな、と。福祉分野では10年の実務経験があり、「実務経験4年」の条件をクリアしているので、専門学校や通信制など一般養成施設で1年間学べば、国家試験を受ける資格が得られます。通う間は雇用保険も出ます。仕事しながら「通信制」ではなく、通学して学びたいので、雇用保険をもらいながら、通おうかな、と。保有している「サービス管理責任者」の資格が、ちょうど更新の研修時期に入っていて、完了するのが2024年1月なので、その後、挑戦しようと思っています。

 

■「なっちゃん」、そして、18歳のころの「自分」へ

 

「なっちゃん」の消息は、その後もわからないままです。実は、私が「当事者発信」を続けているもう一つの理由は、「なっちゃん」を探したい、との思いがあるからです。いつか、どこかで、私の「メッセージ」を見て、連絡をくれればな、と。

 

そして、18歳のころの「自分」には、こう伝えたいです。「〝生きる〟ことを〝あきらめない〟でくれて、ありがとう。18歳の私が、あきらめなかったからこそ、未来の私は、今、幸せに生きられています」と。

 

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